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お互いに協力し合わないと、増加するアニメ番組の本数をまかなえなかった時代
── 髙橋さんはサンライズで活躍する前、虫プロに在籍しながら「おらぁグズラだど」(1967年)など、タツノコプロのギャグ物にも参加していましたね。その当時のことを教えてください。 髙橋 まず、手塚治虫先生が「西遊記」(1960年)に参加するため、東映動画、今の東映アニメーションに1950年代後半にお手伝いに行くんです。その後に手塚先生が自分でもアニメーションをつくりたくなって設立したのが虫プロで、1961年創業です。タツノコプロはその少しあと、1962年設立です。アニメ業界には東映系の流れと虫プロ系の流れがあると思っていたのですが、そうではなくて東映動画のスタッフがかなり虫プロに集められていたんですよね。僕が「おらぁグズラだど」を手伝ったときにも似たような状況がありまして、虫プロのスタッフがかなり大勢、タツノコに手伝いへ行っていたんです。坂本雄作さん、宮本貞雄さん、りんたろうさんの弟である林政行さんといった方たちです。業界内の流動的な状況が、前提としてありました。
僕は、虫プロの中核メンバーだった坂本雄作さんのつくったジャックというスタジオを経由して、「グズラ」にアルバイトとして参加しました。絵コンテを手伝ったのですが、本当に態度が悪くて、スケジュールを遅らせてしまいました。やむなくタツノコのスタジオで絵コンテを書いて、10枚ほどでき上がると、吉田竜夫先生がチェックしてくれるんです。「グズラ」の原作は笹川ひろし先生ですけど、絵コンテのチェックは吉田先生でした。
── すると、虫プロとタツノコプロの間を行ったり来たりしていた感じですか? 髙橋 ええ、虫プロにスタッフが入りきらなくなり、みんなが家で仕事をしたりして、閑散としてしまった時期がありました。そういうときにタツノコへ行くと、人が多くて活気があるんですよね。駅を降りて、玉川上水のあたりを歩きながら、「ああ、太宰治だなあ」なんて思いながらタツノコへ行くのは楽しかったです。
── 「虫プロの社員でありながら、タツノコプロの仕事を手伝うなんてけしからん」という雰囲気はなかったんでしょうか? 髙橋 不思議なことに、そういう感じはありませんでした。僕は虫プロで1年間、制作進行を務めてから演出になったのですが、制作のころはスタッフが他社の仕事をしているのを見て、「ウチのスケジュールがこんなに切迫してるのに、どうして……」と腹を立てていました。ところが、1年たって自分が演出になってみると、つい頼まれて他社の絵コンテを引き受けてしまう。自分勝手とは思いますが、業界の中にタブーはなくて、特に虫プロはゆるかったと思います。
── まだ制作会社が少なくて、お互いに助け合う必要があったのではありませんか? 髙橋 もちろん、協力し合わないと成り立ちませんでした。「鉄腕アトム」が1963年の元旦から放送スタートして、年末にはテレビアニメが4本、翌年の番組改編期には8本ぐらい並んでいました。「アトム」のように枚数を減らしたアニメ番組でも、毎週30分は無理だと言われていたのに、いっぺんに本数が増えてしまった。ですから、ほとんどの番組でスタッフは重複していたんじゃないでしょうか。
── すると、タツノコ以外のアニメにも参加してらしたんですか? 髙橋 タツノコ以外では、東京ムービーの仕事も手伝いました。虫プロで制作進行の同期だった黒川慶二郎さんが、「ムーミン」(1969年)の制作になったので、それで声をかけられたんです。ところが、「ムーミン」の絵コンテがやはり間に合わなくて、Aプロダクションの玄関を入った右側の応接室で描いていました。少し描いては、大隅正秋さんにチェックしてもらって……本当に、ダメ演出でした。それで東京ムービーは、中央線沿線にあったんです。東映が西武池袋線、タツノコプロは西武国分寺線でしたから、それまでは「アニメ業界は西武線沿線」というイメージだったのですが、西武線以外の電車にも乗るようになって、業界が広がっていく感触が確かにありましたね。
今にして思うと、タツノコプロは当時の虫プロに対してシンパシーを感じていたんじゃないでしょうか。なぜなら、タツノコ同様、虫プロも作家のつくったスタジオだからです。そして、ゆるいんだけど自由なところ。当時の虫プロに、タツノコの人たちも同じ匂いを感じていたような気がします。