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自分たちの絵が動いて、世界中で見てもらえる! それが何よりの喜びではあるが……
── 60~70年代のアニメ番組は、お菓子会社などがスポンサーになることが多かったようですね。お菓子だけでなく、文房具やお茶碗などにキャラクターの絵が刷られたりして……。 笹川 そう、「鉄腕アトム」は明治製菓がスポンサーでしたよね。虫プロも、商品化による版権収入を重視するようになっていきました。タツノコプロの場合、「科学忍者隊ガッチャマン」のころ、経理の人に「笹川さん。ようやく成果が出てきたよ」とボソッと言われたのを覚えています。「ガッチャマン」で関連商品が売れて、その版権収入のおかげで、ようやく制作費のメドがついたんです。それまではカツカツだったと思います。たまたま、「ガッチャマン」の商品が売れたことで、制作費が回収できるだけでなく、しっかり儲けが出るとわかったんです。玩具メーカー向けにメカを出そうと考えるようになったのは、それ以降です。
── すると、「カバトット」のころはキャラクター商品を意識してデザインしていたわけではないんですか? 笹川 その頃は、「売れてくれたらいいな」という程度です。二次的な商品化よりも、現場で制作費を安く切り詰めることばかり考えていました。やっぱり、吉田竜夫さんは作家なんです。商売のためにアニメを始めたのではなく、自分の絵を思うがままにアニメーションで動かしたい……そういう動機で始めたわけですから。自分たちが苦労して描いた絵が動き、声がついて、音楽も入って、テレビで全国に流れる……それは、うれしいですよ。とてもうれしいことです。採算はさておいて、世の中のみんなに見てもらえれば、それで満足。お金は、社員に給料が払えてトントンならば、まあ十分だろうという感じでした。タツノコプロの入り口に、吉田さんの「世界の子どもたちに夢を」という言葉が掲げられています。その言葉を聞いた翌日、社員たちは「僕たちにも夢を」と返しました。吉田さんはガクッとなって、「スタッフにも生活があるんだし、そりゃあ夢を見たいよね」と苦笑いしていました。
── 「ガッチャマン」の大ヒットで、少し風向きが変わったわけですね。 笹川 1本のアニメ番組に玩具メーカー、音楽関係者、出版関係者、いろいろなところがからんでいます。ヒットすると関係者みんながうれしいので、いかにしてヒット作をつくれるか頭をひねるわけです。今、日本のアニメは世界中を相手に商売できますよね。CGでメカニックも動かせるし、どんなに難しい絵でも手描きで動かす有能なアニメーターもいっぱいいます。もし吉田さんがあきらめていたら、いまだに日本のアニメは単純な“漫画映画”のレベルにとどまっていたと思います。そういう意味では、吉田さんの粘りはすごかったと認めざるを得ません。タツノコプロにみずからの意志で来てくれるアニメーターは、お金は二の次、「吉田さんの絵に憧れています」という人が多かったんです。お金が目的だったら、もっと簡単に描けるアニメ番組がほかにありましたからね。
── そんな中で「カバトット」を監督していて、どんな気持ちでしたか? 笹川 孤独で、地味な仕事ですよ(笑)。毎日5分間、4コマ漫画のように絵コンテを書くわけですよね。しかも、ちゃんと見てくれた人たちを笑わせるように書かないといけない。シナリオはほかの人が書いてくれるんですけど、やっぱりシナリオは物語ですから、そのままではギャグとして笑えないんです。だから、絵コンテの段階でシナリオを壊して組みなおす必要がある。この地道な努力は、実際に監督した人でないとわからないでしょうね。誰も誉めてくれないから、ちょっと落ち込むんです。
── ナレーションはあるけど、これといった台詞もない作品でしたね。 笹川 大平透さん、曽我町子さん、当時すでに有名だった声優さんたちが頑張ってくれました。ほとんど毎回、同じキャラクターしか出てきませんから、アイデアが勝負なんです。それと、吉田さんは「カバトット」みたいにくだけた絵は描けませんから、それがかえってよかったんじゃないかと思います。オマケ番組でしたけど、人知れず頑張った作品です。
(取材・文/廣田恵介)
(C) タツノコプロ