新作アニメ作品を制作中の梅津泰臣が語る「これまで」と「これから」【アニメ業界ウォッチング第85回】

アニメ2021-12-25 11:00

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80年代後半に「メガゾーン23 PART II 秘密く・だ・さ・い」のキャラクターデザインで一世を風靡し、「A KITE(ア カイト)」シリーズを監督して海外でも大人気となったアニメーターの梅津泰臣さん。今年はアニメ「美少年探偵団」のオープニングの絵コンテ・演出で腕をふるい、その洒脱なビジュアルセンスをあらためて印象づけた。その梅津さんが、新たな監督作品を制作中だという。
新作については詳しく触れられないが、これまでどんな考えでアニメ作品に携わってきたのか、これまでの道のりを振り返っていただいた。

「このキャラを描きたい」と、自分から希望して「幻魔大戦」の原画を描いた


── 時系列で聞いていきたいのですが、千代田工科芸術専門学校を卒業して、最初に土田プロダクションに入社したそうですね。

梅津 専門学校を卒業するとき、どこにも就職先が決まっていなかったんです。困って学科担当の先生に相談したところ、「土田プロなら知っているよ」と、紹介してもらいました。ただ、どうも土田プロとは絵柄が合わないので、社内で他社の仕事をやっていました。しかも、すぐそこで社内の作監(作画監督)さんが仕事しているのに、その横で悪びれずに堂々と(苦笑)。「梅津君、それ何やってるの?」「これは東映の仕事です」と、平然と答えていました。ある日、社員の仕上げや動画の女性たちに屋上に呼び出されて、「こんなに大勢の女の子に呼ばれて何だろう」とウキウキして行ったら、「あんた何考えてるの?」と吊るし上げをくらってしまって……当然ですよね。最悪の新入社員でした、猛省しました。

── 土田プロダクションは、すぐ辞めてしまったと聞いています。

梅津 はい、わずか1~2か月で限界を感じたので退社し、東映動画(現・東映アニメーション)に入りました。最初は動画を担当して、「わが青春のアルカディア」(1982年)で動画検査、アメリカとの合作「スパイダーマン」(1981年)で第二原画になりました。今年亡くなった須田正己さんが同室で、彼には原画の描き方や動きのメリハリを教えてもらい、勉強になりました。
そのうち、「ストップ!! ひばりくん!」(1983年)で作監に抜擢されたんです。当時まだ23歳ぐらいでしたから、先輩たちにやっかまれて「出る杭は打つ」みたいなことを言われました(笑)。当時の東映動画は実写映画の世界と同じように、職人気質の人が多かったんです。それで、ちょっと居心地が悪くなってきたころに「幻魔大戦」(1983年)の情報を聞いて、この大友克洋さんのキャラクターなら、ぜひ描いてみたいとマッドハウスへ移籍しました。

── 以降、マッドハウスの劇場作品に立て続けに参加しますね。

梅津 「SF新世紀レンズマン」(1984年)、「カムイの剣」(1985年)、「時の旅人」(1986年)で原画を描きました。

── 「レンズマン」では、主人公のキムが小型宇宙船に乗って初登場するシーンを描きましたよね。「幻魔大戦」では、どのシーンを描いたのですか?

梅津 主人公の丈がラジカセで音楽を聴いているところにお姉さんがコーヒーを淹れて持ってくるシーン、黒人少年のソニーがニューヨークで巨大な火球から逃げて泣きべそをかいているシーンです。「カムイの剣」では、ヒロインのお雪が荒波の船上に現れて主人公の次郎と海中で戦うシーン、お雪が悪役の天海に刺殺されるシーンを描きました。

── ちょうど、「メガゾーン23 PART II 秘密く・だ・さ・い」(1986年)のキャラクターデザインで注目を集めた時期ですね。

梅津 「メガゾーン23」(1985年)に原画で参加した後、「PART II」に登場する暴走族たちをデザインするよう、頼まれました。オリジナルキャラは初めてだったので、つい楽しくなって主人公たちも描いてしまったんです。そのスケッチをAIC社長の三浦亨さん、板野一郎さんに見せたところ、「全部この絵柄のキャラクターで行こう」という流れになってしまいました。ですから、前作でキャラクターたちをデザインした平野俊弘(現・俊貴)さんには、絵柄を変更することの事前説明とあわせて謝りに行きました。

── OVA「ロボットカーニバル」(1987年)の一篇、「プレゼンス」で監督デビューするのは、その翌年のことですね。どういうキッカケで、監督することになったのですか?

梅津 北久保(弘之)君が大友克洋さんたちを引き込み、著名アニメーターを集めて、「梅ちゃんも参加しない?」と声をかけてくれたんです。その当時は、北久保君がプロデューサー的な役割を担っていて、とにかく積極的に動いていました。僕としては、「メガゾーン23 PART II」で作画監督という職務を納得するかたちで達成できず、キャラ崩れのまま劇場公開されて、パッケージ化されたことが悔しくて……。その雪辱戦という意味もあって、初監督に挑みました。

── その翌年、「AKIRA」(1988年)では錚々たる作画スタッフが集まりましたが、梅津さんが描いたシーンは?

梅津 金田が「さんをつけろよ、デコスケ野郎!」と、鉄雄に怒鳴る一連のシーンです。ほかのアニメーターたちがとても上手かったので、もっと僕自身も粘って研究を重ねて貪欲に突き詰めるべきだったな……と反省していますが、あのカットはよく描けたと思います。自分でも、気に入っています。

── その頃の梅津さんは、別にマッドハウスの社員だったわけではないんですね?

梅津 マッドハウスの丸山(正雄)さんは、「ひばりくん」の僕の作監回を見ていて呼んでくれたのですが、社員ではなかったので、他社の仕事をやっていても怒られませんでした。僕自身も、どこかに呼ばれるのを待つよりは、自分からやりたい仕事へ近づいていくスタンスでしたね。

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