音響監督・三間雅文 ロングインタビュー!(アニメ・ゲームの“中の人”第3回)

アニメ2016-07-21 17:00

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アニメ・ゲーム業界の第一線で活躍するクリエイターたちにインタビューを行い、仕事の流儀や素顔に迫っていく本連載。第3回は、音響監督の三間雅文さん。「ポケットモンスター」「妖怪ウォッチ」「蒼穹のファフナー」「鋼の錬金術師」「黒子のバスケ」「甲鉄城のカバネリ」「マクロスΔ」「僕のヒーローアカデミア」「うしおととら」など、数多くの名作アニメに関わってこられた三間さんに、ご経歴や作品ごとのこだわりなど、たくさんの貴重なお話をうかがった。


明田川進さんからアニメの音響を学ぶ


──アニメの音響を始めたご経緯をうかがえますか?
三間雅文(以下、三間) 大学時代はラジオドラマがやりたくて、アニメのことはまったく考えてませんでした。親戚の明田川進(あけたがわすすむ)さんの会社であるマジックカプセルが、ラジオドラマもやっているということで入社しましたが、そこが主にアニメをやっている会社だとは知らなかったんです。最初の仕事はディズニーのオープニングセレモニーの特殊効果、次にMTVの助監督をやっていましたが、その後からは明田川さんの助手としてアニメーションの作り方を学ぶことになりました。

──当時からアニメはよくご覧になっていたのですか?
三間 アニメはハンナ・バーベラ(編注:米国のアニメーターであるウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラの2人が制作したアニメ)を観ていました。当時、東京12チャンネル(現:テレビ東京)で「マンガのくに」というアニメ放送枠があって、そこで「チキチキマシン猛レース」の吹き替え版を観ていました。日本のアニメでは「宇宙戦艦ヤマト」ですね。



ドリフターズは俺の根っこ


──影響を受けた作品はありますか?
三間 影響を受けたという意味では、ドリフターズは俺の根っこですね。最近も志村けんさんとお会いしたのですが、リスペクトで緊張しすぎてしゃべれませんでした。「ポケットモンスター」とか、「妖怪ウォッチ」といったギャグものの演出の根底にあるのは、ドリフなんですよ。

──アニメ作品ではいかがですか?
三間 「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」(1978)はよくできていたなぁと思います。ただ、決してアニメから影響を受けてアニメをつくろうとは思わないんです。それではコアが小さくなってしまうので、ダメだと思うんですよ。野球をやっている人に野球のおもしろさを伝えてとお願いするよりは、外から観ている人に「野球って、こんなに楽しいことなんだよ」って伝えてもらったほうが、説得力があると思うんです。過去のアニメ作品でやったものを引っ張り出してきてもマネでしかないので、身近な生活の中で気づいたことでも何でも、これまでのアニメにはない、キラキラひらめいたものを取り入れるようにしています。

音響監督のいない東映で音響監督デビュー


──1988年には早くも、OVA「マドンナ炎のティーチャー」で音響監督デビューされていますね。
三間 明田川さんに付いてテレビアニメ「GALACTIC PATROL レンズマン」(1984~85)をやっている時に、青二企画のプロデューサーが「おもしろい若いやつがいるから、やらせてみたいな」と言ってくれたんです。

──スピード出世ですね。
三間 どうなんだろう・・・。当時は音響制作会社って5社くらいしかなかったから。同期は俺と若林和弘くん(編注:押井守監督作品やスタジオジブリ作品の録音演出を務める音響監督)と渡辺淳ちゃん(編注:音響監督。代表作「めだかボックス」「バクマン。」シリーズなど)くらいで、会社が違うのに一緒に酒を飲みに行ったりもしました。

──プロデューサーは三間さんのどういった点に注目されたのでしょうか?
三間 まぁ、こまめに動いてたからじゃないでしょうか(笑)。もしくは、「明田川さんとは違ったものができるんじゃない?」という、ある意味バクチだったのかもしれませんね。とにかく、「ダメだったら俺がすべて責任を取る」という方だったので、自由にやらせてもらえました。

──若さの中に新しい可能性を見出されたんですね。
三間 もうひとつ言えば、「マドンナ」は東映ビデオ製作なんです。音響制作は東映系列のTAVACで、当時は独立した音響監督を付けるというシステムがなかったんですよ。誰かをどかして入れたんじゃなくて、もともといない世界に音響監督っていうのを入れ込んでくれたというのも、ひとつのチャレンジだったと思います。

──アウェイな場所での音響監督デビューだと、ご苦労も多かったことでしょう。
三間 初めは異物扱いでしたね。でも、ミキサーの池上信照さんだけは「異物じゃないよ、新しい風かもしれない」と言って受け入れてくれたので、とても感謝しています。

──TVアニメの音響監督は、「ドラゴンクエスト勇者アベル伝説」(1988)が最初ですね。
三間 これもきっかけは青二企画のプロデューサーさんですね。あと、監督のりんたろうさんにチャンスをいただけて。2人の推しがあったおかげで、こうしたビッグタイトルをやらせてもらえることになったんです。

──ご入社後、ラジオドラマのお仕事は?
三間 10年ぐらい経った頃に、集英社さんから「ジョジョの奇妙な冒険」などのカセット文庫のお話をいただき、やっと自分の夢がかなうようになりました。

斯波さんとの出会いは衝撃的


──三間さんはフリーになられた頃、同じく音響監督である斯波重治(しばしげはる)さんのスタジオを見学されてますね。
三間 斯波さんは業界の重鎮ですが、ターゲットを絞っていた訳ではなくて、自分が井の中の蛙だと思っていたので、明田川さんじゃない人のやり方を見たかったんです。音響制作会社にも何社も連絡をしたんです。片っぱしから電話したけれど片っぱしから断られ、許可されたのが斯波さんを含めて3人しかいなかったんです。そして、3回ほど斯波さんのスタジオを見学して、やり方を見せてもらって、「すげぇ!」と素直に感動しました。明田川さんとは全然違ったんです。

──どのように違ったのでしょうか?
三間 斯波さんは芝居を一番大切にするんです。業界に入って15年ほど経っていましたが、斯波さんとの出会いは衝撃的でしたね。職人の持ってる頑固さというか、強さにほれました。

──斯波さんのスタジオでは何のアニメを収録していたのでしょうか?
三間 まったく覚えてない(笑)。「斯波さんという作品」を観るのに集中していたので。ただ、収録の後で斯波さんにごちそうしてもらったラーメンがものすごくうまかったので、スタジオがアバコだったことはしっかり覚えてます(笑)。



アフレコでは「経験の中の言語」を刺激する


──三間さんのアフレコ方法論を伺えますか?
三間 いろんなバックグラウンドを持つ役者さんに同じ言語で伝えても、理解してもらえません。人には「経験の中の言語」があって、そこを刺激しないと理解してもらえないということが、40代になってだんだんとわかってきました。

──アフレコの現場には監督のほかに、原作者や演出家が参加することもあるそうですが、その場合、どのような調整をされているのでしょうか?
三間 調整はしません。音響監督は「監督の頭の中にある抽象的なものを、具現化する仕事」なので、監督が何を考えているのかに意識を集中させています。なので、原作者さんから声をかけられたり、コメントをいただけると、嬉しいですね。「黒子のバスケ」(2012~15)の藤巻忠俊先生からお礼の色紙をいただいたときには、感動しました。藤巻先生は非常に熱心な方で、アフレコだけじゃなく、ダビングにも立ち会われてましたね。

──キャスティングはいかがですか?
三間 何をキャスティングと呼ぶかにもよりますが、「役者さんを選ぶ」という意味であれば、キャスティングはしません。それは監督がすることですから。いくら芝居が良くても、監督のイメージに合わなければ、オーディションには呼びません。そして、オーディションでは役者さんにダメ出しではなく、相談をします。たとえば、「今笑ってたシーンを、泣きながらやってください」と言ってみたりして、監督と俺の言っていることが理解できているかどうかを確認します。この時、笑い芝居が泣き芝居にならなくても、否定はしません。あまり経験や引き出しのない役者さんであっても、監督の意向に従います。

──役者さんの選定ではなく、監督のサポートをされているのですね。
三間 「何でこんなに梶が続くんだ?」と言われることもありますが、それは梶裕貴さんが監督の好きな芝居をするからです。あんなにプロ意識の高い人はそうはいないと思います。当事者として責任を持って、作品をつくろうとしている姿勢が伝わってくるんです。

──俳優や芸能人の方が声優をすることについては、どうお考えでしょうか?
三間 顔出しの人たちを入れることによって、声優さんたちに科学反応が起こるのは楽しいですね。声優さんたちはお互い顔見知りなので、仲良しクラブ的な雰囲気ができがちです。そこに1人、小栗旬さんや中川翔子さんがいるだけで、声優さんたちの気持ちが変わってくるんです。なので、これからもっともっと舞台や顔出しの方に参加してもらいたいですね。

(次ページへ続く)



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