「俺はあんたという悪を倒す、超人だ!」 #コンレボ
観賞手段:テレビ、BD、試写会、動画サイト
日本におけるヒーロー史は、黎明期から勧善懲悪の枠を逸脱していた。石ノ森版の「仮面ライダー」ではショッカーの正体は日本政府だったし、ブラックゴーストは人間全ての抱える悪の総意を自称した。
永井版「デビルマン」において、最も醜く忌まわしき敵は人間そのものであった。横山作品においても「その名は101」におけるバビル2世の孤独な戦いや「マーズ」における人類自らが招く破滅など、日本におけるヒーロー達は常に正義とは何なのか、何を信じて戦うべきなのかを問われてきた。
アメリカのスーパーヒーロー達は、勧善懲悪の軛から放たれて以後は世界の正義よりも個人やチームでの主義主張を元に離合集散や宗旨替えを繰り返し、日本でも絶対的普遍的な正義など有り得ないのが常識と言われ続けてきた。
今年はウルトラシリーズは総決算であったメビウスから10年にして、久しぶりにウルトラ戦士の名を冠したシリーズを復活、ライダーシリーズは45周年記念として本郷猛が銀幕に立ち、そして庵野秀明の手によりゴジラが復活する。アメリカではマーベルとDCの両ユニバースで各々の中核ヒーロー同士の対決作品がスクリーンに展開された。
コンレボは、高校生時代に脚本家デビューし今や大ベテランである會川昇氏の長年の構想の末に生まれた、昭和40年以降の高度経済成長期の日本をベースとするパラレルワールド・神化時代の世界にて超人として守るべき正義を問う物語である。決して通しやすくはないオリジナル作品企画が、分轄とはいえ2クールの放映期間の確保は平坦な道ではなかったはず。この時期にコンレボ2期が放映され無事に完結できたのは、シンクロニシティ的なものを感じずにはいられない。
前期では超人達を護る組織とされた組織「超人課」の人吉爾朗が出会う超人達の物語が語られ、その中で進化40年代後半には爾朗が超人課と決別しての独自の正義の道を歩んでる事が断片的に示され、そこに至る経緯が示される事がクライマックスとなった。今期は国家に追われる者となった爾朗がそれでも求める正義を模索する姿が中心となり、原案の會川氏が元々書きたかったパートである。
前期において時系列を超えて断片的に語られた爾朗の行動が、パズルを埋めて行くように次々と結び付けられ、物語的には予想以上にシンプルで分かり易い構成になった。その分「正義とは何か、超人の生きる道は何か」と言った命題が顕になり、より考えさせられる展開となった。
凄いのは、前期にて超人課が国家の超人利用の手先であるかの様に描いて状況をひっくり返したように見せながら、今期その裏に更に秘められた事実があり、過去を隠していた事には爾朗に対する配慮も含まれていた。創立者である科学者・人吉孫竹が爾朗に注いでいた育ての親としての情愛の姿である。結局は里見により真実は暴かれ、爾朗の迷走を更に苦しめていく事になるが切ないが。
爾朗は迷走の末に、自らが悪の首魁として倒される事で超人の立場を残そうとするが、その戦いの最終局面で遂に自分に相対する敵を認識する。それまで自分を超人と認めなかった爾朗が、際に自分を超人だと認めて名乗るに至る経緯には熱いものが有る。
超人を、映画を、歌を、漫画を、全てをたかがと嘯き嘲笑う。そんなものでは世界は何一つ変えられないのだと。それは所謂大人達の世界観でもある。それに抗う気概を持った世代が抗ってきたからこそ、今の創作メディアは存在する。神化の世界でも超人達は時代の表舞台から去ったが、しかし創作物の中ではまだ息づいている。
たとえ幻想になってしまっても、幻想は決して無意味で無価値なものではない。作品は力強いメッセージを残して見事に完結する。
後世に語り継いていかねばならない物語がまた一つ、ここに誕生した。
- ストーリー
- 5.0
- 作画
- 4.5
- キャラクター
- 5.0
- 音楽
- 5.0
- オリジナリティ
- 5.0
- 演出
- 5.0
- 声優
- 5.0
- 歌
- 5.0
満足度
5.0
いいね(0)
2016-06-26 05:40:26